trainです。
東日本大震災から10年経ちました。
14時46分の黙とうの時間は電話がかかってきて対応できませんでした。
当時は学生で研究室で実験をしていました。
実験室が最上階だったので免震構造の建屋でかなり揺れた記憶があります。
幸い薬品棚に転倒防止対策をした後だったので薬品の飛散は無かったのですが、
それ以外本や書類が落ちてきて悲惨な状況でした。
防火戸も開き、エレベーターも使えず、非常階段で1階まで下りて
安否確認し、大学にいてもヤバそうだったので一旦解散となりました。
その後余震もひっきりなしにあった気がします。
震災当日は公共交通機関も全滅で、就活していた先輩が横浜あたりから
歩いて帰ったりしていました。
ただ翌日は少し公共交通機関も再開して、教授はうまいことそれを利用して
海外の学会に参加しにいったと記憶しています。
trainはたまたまそのころから一人暮らしを始めていたので、
帰宅難民にはならず、楽させてもらいましたが、たまたま実家の車で
大学に行っており、親から車を戻せということで震災翌日に帰ろうとしました。
首都高は不通で千葉県に入るにも大渋滞で普段なら30分位のところが
4時間位かかったと思います。
ディズニーランド周辺は液状化で道路はガタガタで橋脚とのつなぎ目は数cm段差が
あり運転もしずらい状況でした。
浦安や幕張などはマンホールが飛び出ていたり、電柱が傾いていたりしていました。
その日バイトの予定も入っていたので、一旦帰るのを諦めコインパーキングに
車を停めて唯一動いていた東西線でなんとかバイトに行きました。
「こんな時に無理して来なくても」と言われましたが。。
バイトも終わって深夜になると車も空いていたので、
なんとかその日中に実家に帰ることができました。
震災3日目頃から電力不足で計画停電の話がでてきて、地元の鉄道もほとんど運休と
なったため、2週間近く大学に戻るのを諦めました。
バイクはあったので行けなくはなかったのですが、当時の手帳を見ると
中型自動車の教習に行って研究室をサボっていたようです。
震災影響で卒業式や入学式も中止で、大学の授業も夏の電力がひっ迫する時期に
休校にするためにGWや土曜日も授業があった気がします。
これまで敬遠していた津波の被災箇所にも少しは行くようになってきました。
今年のGWは三陸沿いをツーリングする予定なので、
現在の様子をしっかり目に焼き付けようと思います。